櫻井 ミス 税務会計事務所
ようこそ 櫻井ミス税理士事務所 のホームページへ GO! 相談・提案・改善・満足 → 人々の福祉・厚生・参加
ここからコーナーメニューです
コーナーメニューを読み飛ばす
コーナーメニューここまで
ここから本文です
本文ここまで
コーナーメニューへジャンプする
-
ニュース
-
案内板
- 櫻井のメモ 貨幣 2008年12月15日
- 櫻井のメモ ⑲ 予測可能性 ハンチントン教授に学ぶ 2008年12月10日
- 櫻井の古典 ⑭ カール・ポパーの「反証可能性」 2008年12月10日
- 櫻井の古典 ⑫ アダム・スミス 再 2008年9月4日
- 櫻井のメモ ユビキタス社会 2008年8月11日
- 櫻井の古典 ⑮ ヘーゲル 弁証法 2008年7月18日
- 私の古典 ⑩ アリストテレス 『トポス』 2008年7月18日
- 櫻井のメモ 橋と扉 G・ジンメル 2008年7月18日
- 経営管理 27) SWOT分析と企業倫理 2008年7月18日
- 櫻井の古典 ⑭ 『義務も制裁もなき道徳』 ギュイヨー 2008年6月30日
- 経営管理 26) AGIL図式 T・パーソンズ 2008年5月19日
- 櫻井の古典 ⑯ 命題 J.デューイ 2008年5月1日
- 櫻井の古典 ⑬ ジンメル レヴイナス 貨幣の哲学 2008年5月1日
- 経営管理 ⑰ 目的と手段と能率と 2008年4月22日
- 経営管理(25) コンプライアンス 2008年2月14日
- 経営管理 22) P・Fドラッカー 『現代の経営』 2007年12月16日
- 経営管理⑮ モンゴメリー 内部牽制組織 ⑭ 内部統制 2007年11月1日
- 櫻井の古典 ⑪ デカルト 2007年5月31日
- 櫻井のメモ⑰「交換の社会学」 ホーマンズの社会行動論 橋本茂 2006年4月28日
-
リンク集
案内板
櫻井のメモ 橋と扉 G・ジンメル
ジンメルの「橋と扉」
はじめて小屋を建てた人間は、はじめて道を作った人間と同様、自然には求められない人間固有の能力を示したのであって、彼は、連続する無限の空間から一区画を切り取り、これをひとつの意味にしたがって或る特赦な統一体へと形成したのでる。
すなわち、空間の一部分はそれ自身の内部で統一的に結合されるとともに、それ以外の世界全体から切り離されえたのである。
しかし扉は、人間のいる空間とその外側にあるいっさいのものとのあいだのいわば関節をなすことによって、ほかならぬこの内部と外部との分割を放棄する。扉は開くこともできるからこそ、閉ざされた扉が与える下界との孤独感は、のっぺりしたたんなる壁が与えるそれよりも深い。
壁は無言だが、壁は語る。人間は自己自身に限界をもうけるが、しかし自由をもって、すなわち、この限界をもふたたび廃棄してその外側に立つことができるという自由をもってこれをおこなうのであって、これこそ人間のもっとも深い本質に属する行為なのである。
われわれが身をおいている有限性は、つねにどこかで形而下的ないしは形而上的存在の無限性と堺を接している。したがって扉は、人間がもともとそこに立ちつくしている、あるいは立ちつくすことのできるこの境界線の象徴となる。
橋の場合には分割状態と結合状態の両要素が、前者はどちらかといえば自然の側に、後者はどちらかといえば人間の側に属するとみなされるとすれば、扉の場合には両要素は釣り合いのとれたかたちで人間の作業のなかへ、人間の作業として合流する。ここに橋に対する扉のいっそうゆたかな、いっそう生き生きした意義があるのであって、それは、橋の場合にはどちらの方向に向かって渡るかということによって意味の相違は出てこないのに、扉の場合には出るのと入るのとでは意図のうえで全く異なるという点に注目すれば、ただちに明らかとなる。
窓は、屋内を下界と結合するものとして、その他の点では扉と似ている。しかし窓にたいする目的論的感情はほとんど一方的に内から外への方向をとっている。
われわれの生の力学を支配している諸形式は、橋と扉とによって具象的な形態のゆるぎない永続性のなかへと移される。現世的地平にある生はしかし、結合されていない諸事物の間にたえず橋をかけつづけてゆくように、たえず扉の内部もしくは外部に立ち、扉を通してその向自的存在から世界のなかへ、あるいはまた、世界からこの向自的存在のなかへと、運動を繰り返すのである。
人間は結合をめざしながらもつねに分割をおこなわざるをえず、分割せずには結合することもなしえない存在者であるがゆえに----われわれはまったくの無差別の姿で横たわっている両岸を橋によって結合するためには、まずもって精神的にそれらを分割されているものとして把握しなければならない。同様にまた、人間は限界をもたない限界的存在者である。
彼が扉を閉ざして家に引きこもるのは、たしかに自然的存在の切れ目のない統一のなかからその一部を切り取ることを意味している。しかし無形の限界がここにひとつの形態を獲得するとともに、人間の限界性は、扉の可動性が象徴しているところのもの、すなわち、この限界からあらゆる瞬間に自由のなかへと歩みよる可能性によって、はじめてその意味と尊厳とを見いだすのである。
・・・・
はじめて小屋を建てた人間は、はじめて道を作った人間と同様、自然には求められない人間固有の能力を示したのであって、彼は、連続する無限の空間から一区画を切り取り、これをひとつの意味にしたがって或る特赦な統一体へと形成したのでる。
すなわち、空間の一部分はそれ自身の内部で統一的に結合されるとともに、それ以外の世界全体から切り離されえたのである。
しかし扉は、人間のいる空間とその外側にあるいっさいのものとのあいだのいわば関節をなすことによって、ほかならぬこの内部と外部との分割を放棄する。扉は開くこともできるからこそ、閉ざされた扉が与える下界との孤独感は、のっぺりしたたんなる壁が与えるそれよりも深い。
壁は無言だが、壁は語る。人間は自己自身に限界をもうけるが、しかし自由をもって、すなわち、この限界をもふたたび廃棄してその外側に立つことができるという自由をもってこれをおこなうのであって、これこそ人間のもっとも深い本質に属する行為なのである。
われわれが身をおいている有限性は、つねにどこかで形而下的ないしは形而上的存在の無限性と堺を接している。したがって扉は、人間がもともとそこに立ちつくしている、あるいは立ちつくすことのできるこの境界線の象徴となる。
橋の場合には分割状態と結合状態の両要素が、前者はどちらかといえば自然の側に、後者はどちらかといえば人間の側に属するとみなされるとすれば、扉の場合には両要素は釣り合いのとれたかたちで人間の作業のなかへ、人間の作業として合流する。ここに橋に対する扉のいっそうゆたかな、いっそう生き生きした意義があるのであって、それは、橋の場合にはどちらの方向に向かって渡るかということによって意味の相違は出てこないのに、扉の場合には出るのと入るのとでは意図のうえで全く異なるという点に注目すれば、ただちに明らかとなる。
窓は、屋内を下界と結合するものとして、その他の点では扉と似ている。しかし窓にたいする目的論的感情はほとんど一方的に内から外への方向をとっている。
われわれの生の力学を支配している諸形式は、橋と扉とによって具象的な形態のゆるぎない永続性のなかへと移される。現世的地平にある生はしかし、結合されていない諸事物の間にたえず橋をかけつづけてゆくように、たえず扉の内部もしくは外部に立ち、扉を通してその向自的存在から世界のなかへ、あるいはまた、世界からこの向自的存在のなかへと、運動を繰り返すのである。
人間は結合をめざしながらもつねに分割をおこなわざるをえず、分割せずには結合することもなしえない存在者であるがゆえに----われわれはまったくの無差別の姿で横たわっている両岸を橋によって結合するためには、まずもって精神的にそれらを分割されているものとして把握しなければならない。同様にまた、人間は限界をもたない限界的存在者である。
彼が扉を閉ざして家に引きこもるのは、たしかに自然的存在の切れ目のない統一のなかからその一部を切り取ることを意味している。しかし無形の限界がここにひとつの形態を獲得するとともに、人間の限界性は、扉の可動性が象徴しているところのもの、すなわち、この限界からあらゆる瞬間に自由のなかへと歩みよる可能性によって、はじめてその意味と尊厳とを見いだすのである。
・・・・
2008年7月18日更新
<<HOME