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事業承継について

戦国武将に学ぶ事業承継

(徳川家康の業績を堅実に受継いだ後継者・・・超成功例)

 徳川家康といえば、みなさんご存じのように、1600年に関ヶ原の戦いにおいて西軍に勝利し、以後264年間続いた江戸幕府の創始者であります。本人は、小さいころから人質生活が長くとても苦労した苦労人であり、世の中の「酸いも甘いも」すべてを経験して知っている人物です。江戸幕府成立から5年余りの1605年には将軍の地位を秀忠に譲り、自らは隠居して裏で政権を操っていったのでした。

 それでは、どのような事業承継を行ったかというと
1.家康の帝王学教育
   秀忠に早いうちから後継者として業務を任せていき、管理範囲を「江戸→関東→
   東日本→全国」というように徐々に業務範囲等を拡大させていった
2.長期的事業承継計画
   家康が将軍職に就いたころからすでに後継者へのレールはひかれており、教育・
   組織・人脈等を少しずつ構築していった
3.優秀な補佐役の配置
   本田正信という優秀な補佐役を秀忠につけた

 どうでしょうか? 現在の事業承継での要素である、「教育・計画・組織」が含まれており完璧に事業承継を成し遂げた例と言えるでしょう。
 ただし、秀忠側にも成功に至った要素があります。それは何かというと、「勤勉・慎重・忠実・報告」を貫いたことです。2代目ともなると自我を出して親に反発してしまう者も多々おりますが、秀忠の場合は家康の考え方を忠実に引き継いでいったため成功した事例と言えます。
 現在でも、親があまりにも偉大過ぎると、このような承継になる場合が多いといえます。


(豊臣秀吉に翻弄された後継者・・・失敗例)

 豊臣秀吉といえば、「成り上がり者の天下人」といわれ、織田信長につかえて百姓の身分から関白の身分までのぼりつめた立身出世の人物です。しかし、その承継はうまくいかずに豊臣家は滅亡してしまいます。

 どのような承継をしようとしたのかといいますと
1.後継者の変更
   子供に恵まれなかったため、甥の秀次を後継者として関白を譲ったが、側室淀殿が
   秀頼を出産したため秀次を追放して、秀頼を後継者に変更した
2.承継計画が遅すぎた
   超ワンマンな秀吉は、承継のための組織づくりが確立できてなく、後継者秀頼の
   ための組織作りは、秀吉の死の直前に五大老制が制定されたが時すでに遅しであった
3.後継者の側近
   秀頼のために、五大老制が制定されたが、皆が秀頼を支えようとする者ばかりでは
   なく、秀吉の死後は分裂して関ケ原の戦いへとすすんでいくことに

 秀吉の承継についての失敗は、すべて秀吉の責任であることは明らかであり、後継者であった秀次・秀頼はどうすることもできなかったのが現実ではないでしょうか。
 超ワンマンであるがゆえに組織化が遅れ、致命傷を負った例の典型だといえます。
 現在でも、創業者でワンマンすぎると組織化が遅れ、後継者は自身の考えを積極的に行動に移せない場合が多いような気がします。


   
(偉大なる武田信玄の七光りを引継いだ後継者・・・失敗例)

 武田信玄といえば、「風林火山」で知られた甲斐の国の最強騎馬軍団です。上杉謙信と数回にわたる戦いの末、領土を拡大していきましたが、病気には勝てず、志半ばでこの世を去りました。その後継者である武田勝頼ですが、偉大な父信玄を超えようとした結果、甲斐の国を崩壊へと導いてしまいました。

 それでは、どのように承継されたのかといいますと
1.後継者の変更
   本来の後継者は長子の義信に決まっておりました。父の苦労を傍で見ており、
   幼少期から帝王学を受けていたが、信玄暗殺への加担の疑い等により自害させら
   れました。その後、勝頼が後継者となったのです
2.先代の苦労を知らないで承継
   信玄の苦労を知らないで後継者となったため、勘違いして父信玄を超えようとして
   無理な戦をし続けた。いわゆる「お坊ちゃん」
3.優秀な補佐役不在
   信玄の生前において、勝頼のために優秀な補佐役を確定せずに組織が確立していな
   かった

 信玄の承継は、病気のため、組織の確立等ができていなかったという面はありますが、承継者である勝頼が、いわゆる「お坊ちゃん」であったためにこのような結果となったと思われます。
 現在でも、先代の苦労を知らず順調にいっている会社の後を苦労せず承継した者は、かなりの割合で勝頼のようになりがちではあります。



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