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安芸御前

 広島は、浅野家本家が1619年から12代にわたって約250年藩政を担った。浅野藩第5代目藩主である浅野吉長は、江戸七賢人の一人として有名であり、儒学を藩学の基礎とし、藩士とその弟子たちの武術練習場のあった白島に講学所を創始している。講学所が有名な修道学園である。

 その浅野吉長に節姫という妻がいた。安芸御前と呼ばれているが、節姫は51歳で切腹した。私が岡山から広島に来たのが51歳であり同い年である。浅野吉長と節姫はいかなる人生だったのであろうか。

 浅野吉長は、自ら藩政を行うために人事改革を行い、家老を辞めさせ藩役人の仕事場である御用屋敷と御用達書を設置した。1712年(正徳2年)に、代官制を廃止して豪農を役人として取り立て、農村支配の強化とともに、年貢の増徴を実施した。徳川幕府吉宗の財政立て直しに伴う年貢の増額に加え、浅野藩独自の規制「正徳新格」により農民が苦しんだ。1718年(享保10年)に北広島町で大一揆が勃発し、山県郡で所務役人の家の打ち壊しが起こったため、「正徳新格」を廃止、処刑者100人余り、取り潰しの家も200軒という大変な事態となった。

 農村一揆の打撃を受けたとき、吉長は相当疲れたのであろう。50歳を過ぎて吉原の遊郭で遊び、2人の遊女と陰間2人を身請して連れて帰ろうとしたため、節姫は遺書を残して切腹し、吉長は節姫を東京の青山の寺で供養した。節姫の亡くなった日が、1723年(享保15年)9月29日である。

 吉長によって造られた湯治場が、我が家から車で15分ぐらいのところにある。湯の山温泉であるが、一番上の神社に赤白ののぼり鯉の絵があり、その真下に1700年代に造られた湯治場の跡が残っている。吉長の妻節姫について全く知らなかったが、この湯治場を訪れたとき、初めて私の歳で切腹をしたことを知った。私が癌であったとき、いつも929という数字をよく見ていた。節姫の亡くなった日と同じ数字であり、何故この数字をよく見るのか不思議であった。広島に来てこの湯治場を訪れたとき、同じ年で切腹したと分かり号泣した。身を挺して夫を藩政に戻すため切腹したことを思うと、その夫である吉長がこの神社に祭られているような気がした。

 打たせ湯の上に不動明王が置かれている。その上に1700年代に造られた湯治場と神社があり、お参りしながら滝に打たれる。悩む心も凡夫。凡夫の自覚を持った人間が、念仏を唱えることにて救われる。   以上 令和8年1月29日 税理士 原田潤子
2026年1月29日更新
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