Ⅰ 戦後
終戦後、闇市で生活必需品が法外な値段で取引され、戦中から加速していたインフレはさらに勢いを増し、昭和20年までの4年程度で卸売物価は約70倍に高騰。政府はインフレを抑えるため、21年に預金封鎖と新円切り替えに踏み切った。
昭和22年にインフレーション利得者等へ累進課税するためとして、所得税の最高税率が85%に増税され。
戦時中に発行された国債はインフレによる価値低下で紙くず同然になつた。
GHQにより、農地解放、労働組合、と併せ、財閥解体により証券自由化で個人株主の増大が図られた。
ドッチ・ラインにより収支均衡、特別会計の設置、赤字国債の発行が禁止された。
朝鮮動乱によりGHQは日本を 国連軍の軍事基地・補給基地とし、多量の物資・サービスの需要が発生した。
軍需関連品の生産ための資金調達が不足し、無記名、15%分離課税のワリコー、ワリチョーといつた割引債が発行された。
Ⅱ 高度成長期
ケネディ・ジョンソン大統領は、故障しない車、いい音のオーデオを生産する日本はいい国で、兵士はベトナム帰り、横須賀でレシ-バ-を買つて帰り、本国では日本の車を買いつた。 自動車、家電がローンで購入されるようになつた。
ドルは円だつた。
この頃国民は手形から、自動車、家電メーカの子会社でローン融資を利用していたがアドーン方式であつた。
家具や呉服は日本信販といつた信販会社の分割払いで、店頭価格が分割価格の丸井、丸興、緑屋といつた月賦百貨店があつた。
旺盛な資金需要を賄うため、300万円までの非課税制度、利子・配当課税の分離課税、株式の譲渡益は非課税とした。
厚生省から一人天下りを入れれば全額損金算入の企業年金制度ができ、昭和45年、各組合や企業が企業年金に入つた。
Ⅲ オイル・ショツク
第四次中東戦争戦争で、昭和48年に急速なインフレーションが発生し国債残高は16兆円で公定歩合は9%となり、翌年度予算はインフレーション抑制を目指し総額は17兆円で対前年度19%増となつた。
戦後大量採用された大企業のサラリーマンが定年を迎え社会保障関係費が前年度比36%の大幅増加となり一般会計に占める比率が16%へと上昇した。
田中総理は中東戦争で源油にたよらない現子力発電所を建設しようとした。
これは炭鉱の町の振興、貿易の均衡にも資する一石3鳥だつた。
Ⅲ 安定成長期
住宅金融公庫は、長期・固定・低利の住宅資金の貸付を行っていたが対象者の職業・年収・資産など人物を対象とした条件が厳しかったため、対象外の人々は金利が高めのノンバンクから借入していた。
サラリーマンの交際費の増大によりサラ金という業態が登場した。
大企業の資金需要の停滞は、大手銀行が低金利で集めた預金をサラ金に迂回融資するようになつた。
昭和53年、公定歩合は3.5%
昭和55年、中国ファンドが販売され、証券会社も貯蓄商品を販売できることとなった。
Ⅳ バブル崩壊
昭和60年のプラザ合意後、為替相場は238円から63年は128円とドル安となった。
昭和61年公定歩合は3.0%
内需拡大のため日銀券が大量に発行され、その資金は土地と株式に向つた。
平成2年、橋本大蔵大臣は不動産融資に総量規制を行う。
株価は、平成元年12月に、2,898円をつけ翌年1月から暴落に転じ、9か月あまりの間に半値近い水準にまで暴落した。
平成元年2.5%だった公定歩合は3年には5.5となり7年は0・5%となった。
Ⅴ BIS規制
クリントン大統領は国際的に活動する銀行に8%以上の自己資本比率を求め日本では、平成5年3月末から適用が開始された。
自己資本比率5%だつた日本の銀行は融資の縮小を余儀なくされ。
総量規制と合いまつて立ち直りかけていた日本経済は暗黒の30年に突入した。
平成9年、山一証券、日興証券が経営破綻した。
平成10年、10年前に10%固定金利で割引債を発行した長期銀行、不動産銀行が経営破綻。
平成11年、東邦生命、第百生命、フコク生命等も、10年前に一時払養老保険を大量に販売した保険会社が相次いで倒産した。
平成20年10月、株価はリーマン・ショックにより6,994円となる。
Ⅵ 現在
平成元年世界の時価総額ベスト5のNTT、日本興業銀行、住友銀行、富士銀行、第一勧業銀行は圏外に去り、令和7年はエヌビディア、アップル、アルファベット、マイクロソフト、アマゾン・ドット・コムとすべてアメリカの会社となつた。
小泉政権より厚生年金資金を株で運用するようになり、銀行も投資信託を収益の中心とし、株価は徐々に上昇し、ウクライナ侵攻により原油と小麦、イラン侵攻により更なる電気、ガスの値上げが続き、賃金・材料費の高騰により平成8年2月、株価は5万8583円となつている。